【テーマ読書会】名指しと必然性

◉感想
参加者1人との対話の形の読書会になりました。

本の感想はまず「難しい!」ということ。
私は月5冊ほどの読書量、相手の方はおそらく私以上の読書量、というより純粋に本が好きな方。
(私は本は役に立つからなどの動機で、まだ純粋に読みたくてしょうがない状態ではないのです。
もちろん読み始めると楽しいし、今回のテーマ本は知的興奮を覚えるものでした)
これぐらいのレベルだと「名指しと必然性」はギリギリ読めるレベルと感じました。

難しい理由は、
・哲学用語が当たり前に使われていること
・否定の否定という論理展開が多く、日本語との相性が悪すぎること
・哲学会の通説を前提とした筆者の反論が多いため、前提を知らないこと

ただ私は4回読むことで何とか克服しました。
相手の方も十分に最後まで読めているようでした。
なので他の人からすると今回の参加条件が非常に厳しいということですね。

議論していると、構図がだんだんはっきりしてきます。
相手の方が納得出来ない部分や東洋の思想からの指摘を出し
私がクリプキを擁護する形で説明することが時々ありました。

もちろん私もクリプキの主張で分からないことを話して
相手の方に答えてもらうこともありました。
そんな時に「そういうことか!」と気づきが得られる瞬間があるんですよね。

これが読書会の良さというか、人と共有する良さですよね。
1人だと仕事に関係ないと突き詰めないし、途中でやめちゃうことが多い。
何でもかんでも仕事のために何かをするではなく
ある種ギリシャの賢人たちがしていたような、
仕事は奴隷に任せて自分たちは議論をする。
自分が働くかどうかは置いておいて、
とにかく好きなことについて議論をすることが大事だと思います。
そして気づきを得られた時の嬉しい感覚があってまた話したくなる。

一つのテーマについて2時間話すのは楽しいし、ためになると感じます。
ためになる理由は別途ブログに投稿してらリンクを貼ります。では。

◉議論メモ
あくまで対話であり、⇨は結論ではなくそれに対する一方の回答です。

・形而上学
大前提に形而上学が置かれているだろう。

・アプリオリ
太陽に当たって暖かいと感じることがアプリオリであり、
暖かいと知ったこと(それによって太陽に当たりに行く)はアポステリオリであることの例と言える。

・可能世界
1.可能世界を考えることに一般人は違和感を覚える。
2.そして別の世界に猫まがいを考えたときに、現在猫の本質が何なのかも分かっていない私達のその程度の認識能力が
写した猫まがいと現実の猫を比較することに疑問がある。つまり猫に似た何かを写したつもりだろうがそれは猫まがいですらない。
3.また猫まがいを考えるのは良いが、その別の世界の私たちがどう考えるのかに言及してないので可能世界に納得できない

1.確かに哲学界共通の知識がまだ足りないのでなんとも言えない
2.これと似た話で、クリプキは例え人間が盲目だったとしても「熱は分子運動である」ことは必然であったと説明した。
しかしクリプキは認識的ではなく形而上学的に言いたいのだろうが、
そもそも人間がそれを考えている時点で認識の範囲内だからそれは正しいと言えるのか。
3.クリプキ曰く、可能世界では約定する。十分条件を考えずに、必要条件のみ考えることからある程度納得はできる。

・ソシュール曰く
名前とは物と物を区別するためのものである。
⇨名前は本質を元につける。
⇨全ての名前はまず区別から始まり、そして他と区別した本質を元につける。

・意味論と語用論
コミュニケーションについての理論なので特に考えない。

・仏教
物の本質は移り変わりゆくと考えるから、名前に本質を含むことはないと考えられる
⇨これを前提にすると、クリプキの言う最初は何らかの確定記述で固有名をつけること、
それに対して例え最初だけでも名前に確定記述は含むのではないかと疑問に思っていたが
本質は移り変わるから、それはもう本質ではない、名前をつけた当初の確定記述はやはり名前に含まれないことが理解しやすくなる。

・ヘスペラスはフォスフォラスであることから一番言いたいことは
クリプキは金星は金星それ自身と同一であると言いたい、つまり物事の存在自体を強調したいのではないか。
⇨そしてその存在があることによって人間が固有名をつけることができる。
⇨逆に名前をつけることができるのは形而上学的にそれが存在している(必然)ということが考えられる。

・自分が自分ではないとはとても想像しにくいから、自分は自分それ自身である主張は通る。
⇨しかし、父親と母親が別の組み合わせだったことと、自分が別の人として生まれていたことはほぼ同確率的だから必ずしも主張は通らない。
⇨確かに理論的には同確率的だが、逆にそう感じる感覚が大事なのではないか。クリプキも言っていたように直観が一番の根拠であると、だから自分の存在とは絶対的なものである。
⇨ただし、仏教的にはあらゆものは移り変わるし、そもそも自分の存在も親から子へとのただの継承であり、存在自体はただの現象であるからそう言えないのではないか。
⇨いや、クリプキが考える十分条件はいらないを借りるならば、誰から生まれようが前提条件は必要なく、私が存在することを約定する。
そうなる私はわたし自身であること、つまり私の存在が最も強い何かに思える。

・架空のシャーロック・ホームズ
ホームズの存在は必然ではない。なぜなら現世界の現実で存在しないというシンプルな理由だから。

・クリプキの主張方法・本の形式
ヘスペラスはフォスフォラスであることについて、そうでないことについては説明しているが
そうであることについてはあまり説明できていない。
そしてこの本自体、他者の主張を元にした反論が多くを占めているから
クリプキ自身も自身の主張に圧倒的根拠は持ちえていないと言ってることは確かだ。

また反論が多くなる性質上、「〜であるのは正しくないということは違うように思われる」という
非常に理解し難い文章構成が多い。日本語には向いてないとも言える。

◉周辺の話
・カントの功利主義

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